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Saturday 21 July 2007

M・アシン・パラシオス『イスラムと《神曲》』/Islam and the Divine Comedy by Miguel Palacios

スペインのアラブ学者M・アシン・パラシオスは、おそらく20世 紀に書かれたダンテ研究のなかで、最も物議をかもした論文を残しました。ローマ・カトリック神父であり、またマドリード大学教授でもあったアシン・パラシ オスの主張は、ダンテの『神曲』はこの詩人の才能によって無から生み出されたのではなく、イスラームの神学的文献からインスピレーションを得、そこから多 くの形式と内容を借りて書かれたものである、というものでした。1919年『神曲におけるイスラム終末論』が出版されるや、賛否両論の嵐がヨーロッパ中に起こります。
アシン・パラシオスは、なかでもDoctor
maximus
(最大の師)と呼ばれる偉大なイスラムの思想家、イブン・アラビーの『夜の旅の書』、The Book of the Nocturnal Journeyと、『神曲』の間に多くの関連を見出します。
精 神の目的は、実在の本質である神についての認識を獲得することである。この目的に向かう道を探すうちに彼らは、創造者の知識に彼らを導く使徒と出会う。あ る人々は感謝のうちに使徒の導きを受け入れ、またある人々は、自分たちの認識の能力がまったく劣るものではないというのを理由に、その導きを見下して受け 入れない。前者が、啓示された教義の導く方向へと従い進む一方、後者はただ自身の理性の光にのみ導かれて進む。
ここに神秘的寓意物語が始まる。物語の主人公は二人の旅人で、それぞれ上記二種類の人々に分類される神学者と合理主義的哲学者である。彼らは同時に、神へと向かう旅路へ出発する。・・・・・・
『夜の旅の書』はこのようにして始まります。
アシン・パラシオスは『神曲』の主人公と、『夜の旅の書』の主人公たちの類似を指摘します。ダンテは最初ウェルギリウスに導かれる哲学者として出発し、その後ベアトリスの教えを受けて神学者として天上へと導かれるのです。
ダンテとイブン・アラビーは、これらの旅を象徴として用いました。象徴されているのは、最終的な目標に達するための準備として神より託されたような、この世における精神的生です・・・。
ところでルネ・ゲノンは、『ダンテのエゾテリスム』で、ダンテとイブン・アラビーの精神がどこで出会ったかを暗示しています。ダンテは、アヴェロエ スやアヴィセンナの名前は書き残しましたが、イブン・アラビーについてはそうではありませんでした。なぜなら(ゲノンによれば)、当時イブン・アラビーの 形而上学は“俗な“経路によってもたらされたのではなく、秘教的な教えとして一般には隠された経路で伝えられたものだったからなのです。
Islam and the Divine Comedy  by Miguel Palacios

Thursday 19 July 2007

『鋼鉄の嵐の中で』エルンスト・ユンガー/In Stahlgewittern von Ernst Jünger



エルンスト・ユンガーは、トーマス・マンの死後、現代ドイツ文学で最も優れた作家とも言われています。第一次世界大戦を勇戦し、ドイツ軍人として最高の勲章 を受けました。第二次世界大戦中はパリのドイツ軍司令部に勤務しましたが、ヒトラー暗殺計画に関わったためにドイツ軍から追放されました。パリ滞在中の日 記には、ジャン・コクトー、ガストン・ガリマール、ジョルジュ・ブラック、ピカソ、ドリュ・ラ・ロシェルなど、当時パリにいた著名人が次々と登場します。 この日記の仏訳(Jardins et Routes)の出版により、ユンガーはフランスに多くの愛読者を持つことになりました。ミッテランもその一人です。終戦後は、ライプツィヒとナポリの大 学で動物学と哲学を修め、その後作家として執筆を続けました。その名の示すとおり – Junger – younger -、102歳まで生きた長命の作家でもあります。
ユンガーは第一次世界大戦の戦場での出来事を、ひとつひとつ冷静に日記に書きとめました。
ジャンヌ・ダルクとあだ名した勝ち気なフランス人少女との夕食、屠殺場と化す凄惨な戦場、放置されたまま腐敗する死体のなかの行進、日なたのなかで背伸び する猫のように体を伸ばし、まだ幼い顔に微笑みを浮かべて死んでゆく兵士、限界まで神経が張りつめられる夜間の作戦、草上でアリオストを読みながらの休 息、戦場で負傷した弟との再会とその救出、勇敢な戦友たちの死と自らの負傷の数々・・・。 アンドレ・ジッドはこの『鋼鉄の嵐の中で』を、「戦争について書かれた本のなかで、疑いなく最も美しい(incontestablement le plus beau livre de guerre que j’aie lu)」と書いています。
あるときユンガーは、ポケットから家族の写真を出して見せ、命乞いをするイギリス兵を見逃して助けました。致命傷を負って倒れ、自分の足にすがってきた兵 士の背をやさしくたたき、指揮する為にその場を離れました。またあるときには、塹壕戦で倒した敵の顔を、まじかに覗き込みました。倒れているのが、自分で はない理由があったでしょうか?兵士は運命論者にならざるを得ません。鋼鉄の嵐、戦場のなかでは、生死を分ける行動を選択する余地など、ないのです。

『鋼鉄の嵐の中で』には、ヘミングウェイにみられるような臆病さの気配も、 T.E.ローレンスのマゾヒズムも、『西部戦線異常なし』のレマルクの憐憫の情も見られない、とブルース・チャトウィンは書いています。「そのかわりに、 ユンガーは、人間の“基本的な”他人を殺す本能についての信念を提示する。-(戦争は)ひとつのゲームであり、もし正しくなされたなら、騎士道的な規範に 従うものなのだ」
ユンガーは、1918年カンブレー付近の絶望的な戦いで銃弾を浴びて倒れたときを、人生で本当に幸福だった数少ない瞬間でもあった、と回想します。 「その瞬間わたしは理解した、閃光のように、わたしの人生を、その構造の最も奥深く隠されたところで。」"真理の光は陽の光に似て、好ましい場所に刺すと は限らない"ー日記の迷宮のなかで、ユンガーは静かに語りかけてくるのです。



原書  In Stahlgewittern von Ernst Jünger
Das Begleitbuch zu Ernst Jünger ‘In Stahlgewittern’:
Footnotes to The Reader’s Companion to Ernst Jünger’s "In Storm of Steel" by Nils Fabiansson
ユンガーの『鋼鉄の嵐の中で』の脚注。(ドイツ語および英語)

Saturday 7 July 2007

ゲルショム・ショーレム 『ベルリンからエルサレムへ』/Von Berlin nach Jerusalem. Jugenderinnerungen von Gershom Scholem

ゾーハルやカバラ、ユダヤ神秘主義の分 野において著名なショーレムは、ヴァルター・ベンヤミンの親友でもありました。この自伝では多くのページがベンヤミンの思い出に費やされています。大学に 失望してふたりで架空の大学を設立し、その運営上の問題について意見を交換したこと、ベンヤミンの不幸な結婚生活を目撃して辛い思いをしたこと・・・。
ショーレムが同時代に会ったその他の知識人には、ブロッホ、アドルノ、ホルクハイマー、ハンナ・アーレントなどがいます。アドルノとアーレント(彼らはた がいに嫌いあっていたのですが)ともうまくつきあうことができました。これは友人としてはひどくつきあいにくいベンヤミンとの、長年の交流から獲得された 性質による、とショーレムは回想します。
ショーレムの会った人々のなかでも、特異な人物がこの自伝に現れます。
「反ブルジュア的な風刺の水際立った才能を、神秘主義の誇大宣伝のしたたかな才能と結合させた有名な作家」、グスタフ・マイリンクです。ショーレムによれば、当時マイリンクの文学的な質を陵駕するのはホルへ・ルイス・ボルヘスだけでした。
ショーレムはあるとき知人から、マイリンクが自分自身の著作の数箇所を説明してもらいたがっていると聞きました。そして1921年 「ある程度好奇心にかられて」、彼に会いに行きます。「作家というものがいかに偽の神秘的印象をちょろまかすことができるか」、、、ショーレムはマイリン クの印象を、「さながら究極の小ブルジュアといった風貌で、そのぱっとしない外観は彼の書く幻想的な物語とは裏腹であった」と書いています。
マイリンクは突然問いかけます、「神がどこに住まわれているか、ご存知ですか」。その時「人が神を入らせるところ」という有名なラビの言葉で、ショーレムが答えたかは分かりません。
マイリンクはショーレムを穴のあくほど見つめて言いました。「脊髄にです!」。

 グスタフ・マイリンク
原書 Von Berlin nach Jerusalem. Jugenderinnerungen von Gershom Scholem